【板橋】
城下とともに歴史を紡いできた、今も続く〝職人のまち〟

箱根へ向かう国道1号線。脇を早川が流れる。

小田原の市街地から箱根に向かう東海道沿いに佇んでる、どこか歴史を感じさせるエリア「板橋」。
みなさんはどういう印象をお持ちでしょうか?
かつて小田原の城下にめぐっていた〝小田原用水〟の面影を残すまち。
独特の風習や行事を伝えている〝神社仏閣〟の点在するまち。
茶の湯をはじめとした、いわゆる〝別邸文化〟の発展したまち。
そして何より、現在もなお息づいている〝職人文化〟のまち。
そんな、小田原の城下とともに歴史を紡いできた「板橋」について、今回は紹介したいと思います。

〝職人文化〟のはじまりは
石切・青木善左衛門と京紺屋・津田藤兵衛の2大職人。

明応4年(1495年)、北条早雲が小田原城を奪取して、小田原は北条氏の時代へと突入。
そんな中、大窪(板橋の旧名)にやってきたのが、石切職人の青木善左衛門でした。
〝石切〟とは、石の切断や加工をする仕事のこと。
おそらく、お城の造営工事、石垣づくりの職人として、重用されていたと思われます。
のちに青木家は、江戸城建設の際にも小田原の石職人を引き連れて参加し、その技術を高く評価されたと言われています。

旧石切・青木家(株式会社青木石濱)

旧京紺屋・津田家の蔵

また、大窪では〝染物〟も盛んでした。
『小田原染』『小田原藍』とも呼ばれた染物は、界隈の職人たちにも人気となりました。
その中心にいたのが、旧家・津田家の津田藤兵衛。
津田家もまた、宮廷の染物にも携わったことから〝京紺屋〟の屋号を賜りました。
青木善左衛門、津田藤兵衛に代表されるような名職人たちの活躍によって、この地の〝職人文化〟は、広くその存在を知られるようになっていったのです。

北条氏康による城下町の整備、町屋の整備。
「板橋」から城下に水路をめぐらせた〝小田原用水〟。

天文10年(1541年)、北条氏康が第3代当主になると、城下のお屋敷群の整備に続いて、町屋の整備もされていくようになりました。
この頃にできたのが、日本最古の水道とも言われる〝小田原用水(小田原早川上水)〟。
その取水口があったのが、大窪でした。
大窪の地名が「板橋」になったのもこの時。
水路に板の橋がかかっていたことから、と言われています。
〝小田原用水〟は、旧東海道の裏道を通り、今の浜町のあたりまで流れて、城下の家々を潤しました。
用途は主に飲用でしたが、防火用水としても機能。
小田原に近代的な水道施設(1936年完成)が普及するまで、長きにわたり、生活の中で使われ続けたのです。

「板橋」の脇、国道1号線沿いを流れる早川。ここに〝小田原用水〟の取水口がある。

早川にある〝小田原用水〟の取水口。ここから用水に水を取り込んでいった。

小田原大外郭の構築と、
独特の風習を今に伝える〝神社仏閣〟群。

〝板橋見附〟の名前の残るバス停。

そして天正17年(1589年)、歴史に名高い〝小田原大外郭〟も構築。
城下との境界を空堀や土塁で囲んで守る、総延長約9kmに及ぶ大城郭です。
「板橋」はその境界に接しており、人の往来を見張るための〝板橋見附〟も置かれました。
また、地域には、当時から〝神社仏閣〟が点在。
宗教的な役割以上に、それぞれの塀が城郭の防御壁になるといった点が重要視されていたようです。
その代表的な〝神社仏閣〟のうち、いくつかは、現在も毎年伝統的な行事を開催。
それらは他に類を見ない独特の風習を伝えるものが多く、市内近郊にとどまらず、高い人気を博しています。

秋葉山量覚院

修験宗(山伏)の寺。
毎年12月に、山伏が天下泰平の祈願や山伏問答をして火の上を渡る〝火渡り〟の儀式をする、『火防(ひぶせ)祭』を行っている。

居神神社

戦国時代の武将・三浦義意を主祭神に祀る神社。
毎年5月の例大祭の宮入では、〝居神流〟と呼ばれる荒々しい担ぎ方をすることで知られる。
お神輿は、東海道で周回した後、この階段を駆け上がっていく。

板橋地蔵尊

毎年1月と8月に大祭があり、たくさんの露店が軒を連ねて、多くの人で賑わう。
詣でると、亡くなった身内の人と瓜二つの顔の人に会えるともいわれている。

『箱根物産合資会社』の設立と、海外での製品販売へ。

OTA MOKKO(旧大窪村役場)

明治22年(1889年)の町村制施行により、「板橋」は周りの村と合併、名称を〝大窪村〟(足柄下郡)と改めました。
とはいえ、〝職人文化〟は発展を続けていき、地域には多くの熟練した職人が住むようになっていました。
特に、木工の〝挽物〟(ろくろを使う、お椀やお盆等の製品)や〝指物〟(板等を組み合わせる、家具や調度品等の製品)は『箱根物産』と呼ばれ、注目を集めるように。
明治31年(1898年)には、「板橋」の職人たちを中心に『箱根物産合資会社』が設立。
横浜の外国人居留地の商社へも営業を行い、漆器、陶器、寄木細工等も含めた多くの製品が、海外でも販売されるようになっていきました。

おとずれた別邸建築ブーム。
南町とともに花ひらき、発展していった〝別邸文化〟。

また、小田原馬車鉄道の開通以降、小田原の海岸の周辺には多くの別荘や別邸が建てられていましたが、明治35年(1902年)の小田原大海嘯(大きな被害をもたらした高潮)からは、丘陵の「板橋」エリアにもそのブームは訪れていました。
茶の湯をはじめとした、文化人・財界人などによる、いわゆる〝別邸文化〟が、近隣の南町とともに花ひらき、発展していったのです。

松永記念館

実業家であり、小田原三茶人の一人・松永安左エ門が晩年を過ごした場所。
昭和55年(1980年)に小田原市郷土文化館の分館に。
居宅「老欅荘」と、移築された野崎廣太の茶室「葉雨庵」は国の登録有形文化財。

古稀庵

第3・9代内閣総理大臣・山縣有朋が古稀(70歳)を迎えた際、終の棲家とするために建設した。
相模湾と箱根山を借景にした庭園は傑作と名高い。
(毎週日曜のみ開園)

皆春荘

第23代内閣総理大臣・清浦奎吾が別邸として建てた、数奇屋風の木造建築。
大正3年(1914年)に古稀庵の別庵として編入。
小田原市の歴史的風致形成建造物。

近代化による変化と発展。
一方で、今も残る、残そうとされている「板橋」らしさ。

箱根登山線・箱根板橋駅

大正から昭和には、文化面でもまち全体にも、近代化の大きな波が訪れました。
まず〝職人文化〟の面では、大正時代初期の海外の木製玩具の需要により、『箱根物産』の〝玩具〟生産も急成長、急拡大。
製造技術の改良も進められるようになり、電動式ろくろ導入など、機械化、効率化が工夫されるようになっていきました。
まち全体では、昭和10年(1935年)に箱根登山線・箱根板橋駅が開業、昭和15年(1940年)には〝大窪村〟が小田原町などと合併。
その後も現在に至るまで、時代とともに様々なことに変化が続きましたが、一方、変わらずに残っているもの、残そうとしているものが多いことも、「板橋」の特徴かもしれません。
例えば、〝小田原用水〟は、市街地ではほぼ暗渠ですが、「板橋」では一部開渠になっているところもあり、今も面影を感じることができます。

「板橋」の旧東海道裏を通る、〝小田原用水〟。

本町の〝小田原宿なりわい交流館〟前には、〝小田原用水〟を模したものも。

また、前述した〝神社仏閣〟の毎年の伝統行事では、古くからの風習にたくさんの人が触れることができ、〝別邸文化〟に関わる文化財や他の歴史的建造物も、様々な人の、残し、活用していこうという動きや思いが感じられます。

旧内野醤油店(現在は非公開)

TEA FACTORY 如春園(旧下田豆腐店)

〝職人文化〟としては、その空気感に惹かれて新たに工房などを構える職人さんも増えつつあり、現在も進行形のムーブメントとして、「板橋」を彩っています。

ひっそりと、けれど城下とともに確かな歴史を紡いできた、「板橋」のまち。
一度、お散歩がてら、その雰囲気を味わってみてはいかがでしょうか。

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